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酔っ払いと公衆便所

アカン吐きそうや

サトリーナ

哲学 エッセイ

先日、仏教に関する本を読んでいて驚いたことがあった。座禅と瞑想は全く別物らしい。何でそんな本を読んでいたのか?暇だったからである。

でもまあ仏教の基本は解る。単純に 生きてる意味なんか考えてるから苦しむんだよ。金でも子供でもすてっちまえばいいじゃねーか。ばーかばーか。である。結構パンクだ。なので仏様が人間自体を苦しみから救ってくれるわけではなくこれは完全に後付け設定でガンダムのオーブイエーみたいなもんである。仏様は苦しみから離れる方法を出来るだけやった方がいいよと言っただけである。ただその一切の苦しみまたは幸せから離れた状態が悟りといわれる境地である。ただみんな馬鹿だから自力でしがらみを断ち切ることが出来ないのでお坊さんに手伝ってもらったり修行する訳なんです。ただ私自身にわか仏らーなのでガチの人からすると間違っていると思う。

で座禅と瞑想の違いなのだがこれは、自分が無限になるか 自分を無限にするか の違いである。瞑想は自分が宇宙を取り込み個になる事。座禅は徹底的に自分を殺し宇宙に広がって一体になることである。わかりにくい自分の入り口が瞑想。自分の出口が座禅である。なるほど。で座禅の方にはいろいろあって、例えば座るだけでなく日常生活すべての行動が禅の修行であるという考えもある。なので酒を飲んでもお肉を食べても女をコましても修行であり悟りに近づく。という解釈の宗派もあっておもしろい。別に怪しい新興宗教じゃなくれっきとした禅寺である。ベンツ乗るのもロレックス付けるのも修行である。しがらみを捨てるというしがらみを捨てる修行とのこと。後は禅問答 師匠より弟子がお題を無茶振りされ弟子は禅的なアンサーをしなくてはならない。例えば師匠が カレーライス といったら弟子は 福神漬け といったらぶっ飛ばされる。 ご飯もだめ。 ビーフもだめ。 梅宮アンナくらいだったらOKかもしれない。そんな頭が痛くなるようなコミュニケーションを延々と行い悟りに近づく。後は黙って座るざぜんですかね。でこれを毎日やるとある時パキッと悟る。しかも人生に悟りは一回でなく何度も悟る。大きな悟りを大悟 小さな悟りを小悟といって毎日修行して悟り続けて一生を終えるのだそうだ。お坊さんは。

しゅごい。わたしもサトってみよかしらんとおもい別途の上で座ることにした。細かく言うと胡座じゃないんだけど胡座系の足を組んで座ろうとした。しかし長年の運動不足のせいでうまく胡座が掛けない。えい!! と気合いを入れ無理矢理胡座をくんだところプウと屁をコいてしまいその拍子にかなり頑張っていた右のふくらはぎがつってしまい あきゃーん と情けない声を上げワタシは飛んでもないカッコウでベッドから転げ落ちた。まず座禅の基本の200歩前あたりで失敗したワタシはあきらめなかった。 胡座じゃなくても座って目を閉じてればいっしょじゃね? と考え今度は右足をたてて左足を伸ばし右腕を膝の上に載せてエヴァンゲリオンのホモの人のような格好で目を閉じた。 こい悟り!!! こない。こないどころかなぜか下着姿の西川史子が出てきてしまい困ったワタシは便所に行き一発抜きました。すっきりしました。ワタシはレンゲの座ではなく便器の座で悟りを開いた。この調子でワタシは人々を救ってこますと思った。桜が散り始めましたね
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