酔っ払いと公衆便所

アカン吐きそうや

エロ維新

今エロは希少価値を失っている。スマホやパソコンでエックスビデオやカリビアンコムなど無料でエロが観放題である。抜きねたに困ることはない。私の少年期はエロはとても希少でいつもアフリカの難民クラスに餓えていた。クラスで出回るエロホンはとんでもなく上等な抜きねたで若き志士たちは己の性欲を女性用下着のチラシや旅番組の入浴シーンに文字通りぶちまけて性の夜明けを待ったものである。

出回ってくるエロホンにも上等下等があって、自ら購入した物は一等品、兄や家族から流出させた物は二等品、川や森で拾った物は三等品となりクラスで密貿易される物は二等から三等のものが多く物事態もボロボロでページが捲れない、女性器に塗られてる黒いモザイクがベンジンによって溶かしてあり真っ白くなっている、自分の性癖にあわない(SMやロリ物)が多く流通していてそれを持ってしても若き志士たちは、童貞の喪失を夢見て毎日悶々とした日々を送っていた時代があった。

ただやはり人間欲深いもので出来ることなら自分のエロホンがほしくなる。夜鷹ではなく花魁相手に天下を語りたくなる。のが人情でその場合書店かコンビニで買うしかないのであるがこれがとんでもなく難易度が高い。

中学生が法律の目をかいくぐりエロホンを買うには「オバハン」を出し抜かなくてはいけない。「オバハン」はエロの万人であり、店の売り上げなどそっちのけで「エロホン志士」たちを取り締まる「新撰組」だった。

なので最初はみんなナメてかかり、店内でエロホンを物色。見つけたらオバハンの待つレジカウンターにブツをだす。するとオバハンはじっくりとエロホンと中学生の顔を観て一言「まだ早いな。アンチャン」ぐっと顔を寄せる。ここで大概のエロホン志士たちは挫ける。オバハン追い打ちをかける。「元あった場所に置いといて」売らないばかりかエロホン売り場に返させるのである。志士たちは、屈辱とともに本屋を後にする。悲惨な戦いである。志士たちはエロの「志」に倒れていく。まさに勝負、性欲と道徳のデスマッチ。板垣死すともエロスは死なず。志士たちは先方を変え、親父の背広でかいにいく、表紙がエロくないものを狙う、ソフト目の物を選ぶ、逆に一番過激な物を選んで特攻する、さも誰かに頼まれたのような演技をしてメモ帳にエロホンの名前を書いてくるモノ、桂正和先生の漫画で妥協するもの、様々な失敗を重ねて志士たちはみな死んでいった。そんな時代だった。エロ末の時代を生き抜いた志士たちはエロの文明開化後急速に堕落していった。私は少し寂しく思う。ある時友人に本当にエロがなくてこまった時おかずにしたものはなに?と聴いたら「木のウロ」と帰ってきた。西郷隆盛さんも感心するだろう。このように大変な「エロ飢饉」を体験したオッサンもいるのでエロは有り難くいただいてほしい。俺はなにもしてないけど。


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